謂れとかたち
富塚鳥見神社の向拝の龍

鳥見神社とは
鳥見神社は印旛沼北岸内に集中して分布している
一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われる
祭神には物部氏の祖神を祀る

富塚鳥見神社
富塚地区の産土(うぶすな)様

一ノ鳥居
装飾的な構造の明神型鳥居
最上部が笠木と島木から成る二層構造を採っている
笠木の両端が反り上がった流線的なフォルム

寛政七年(1795年)卯歳十一月吉日の銘あり
「當村氏子中」ともある


一の鳥居の神額
中央の神額に額束(がくつか)の社名が示されている
鳥見大明神と読める
「トリミ」が呼称とのこと


一の鳥居  明神型鳥居

一の鳥居の神額 鳥見大明神

二の鳥居より本殿を見る

本殿(市指定有形文化財)
一間社流造 (いっけんしゃながれづくり)で東向き、総ケヤキの素木造
壁三面は全て二十四孝を題材とする彫刻で飾られている

・一間社: 正方形の建物で、各面が柱が2本、壁が1面で構成された社殿
・流造 : 切妻造(ハの字形の屋根)の前側の屋根が、反りながら長く伸びて庇もかねた造りになっているもの
・素木造 (しらきづくり):削った白木のまま何も塗っていない材木でつくられたもの

創建の時期は不明
慶安三年(1650年)、享保19年(1734年)、寛政9年(1797年)、文化9年(1812年)、明治8年(1875年)
五枚の棟札が残っている
本殿の建造・修築の来歴がはっきりとしている貴重な神社建築
現在の本殿は文化9年(1812年)に作られたもの
屋根はもともと草葺だったが、明治8年に銅板葺きに改修された

本殿の大工は地元神々廻(ししば)出身と考えられる笠井杢之直
彫師は竹田重三郎、左甚五郎の系譜の名工


本殿正面


本殿正面 一間社流造 (いっけんしゃながれづくり)で東向き、総ケヤキの素木造   北東より見る


向拝 正面


向拝  左側より見る

向拝  右側より見る

中備の龍の彫刻
左右にある向拝柱の上部を繋いでいる正面の梁を《水引虹梁》という
水引虹梁の上に中備(なかぞえ)として龍の彫刻が彫られている


中備(なかぞえ)の龍 水引虹梁の上にある


龍の頭部


向拝柱と中備(なかぞえ)として龍の彫刻


龍の頭部


龍を斜め下方から見る


向拝柱に巻き付いた龍の彫刻
向拝の屋根を支える柱《向拝柱》龍の彫刻が巻き付いている
左が降り龍、右が昇り龍
(偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれている)


降り龍(左側)

昇り龍(右側)


降り龍(左側)

昇り龍(右側)


龍の爪(降り龍)


十四孝
壁面の羽目板にはすべてを題材に彫刻がなされている

『二十四孝』(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物
元代郭居敬が編纂した

南面:楊香(ようこう)
楊香は虎に「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願う


南面:楊香

西面:唐夫人(とうふじん)
唐夫人は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、仕えた


西面:唐夫人


唐夫人

北面:郭巨(かくきょ)
郭巨が妻に言う
「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ
夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない
ここはこの子を埋めて母を養おう


北面:郭巨

鳥見神社

住所:白井市富塚694
【説明:白井市公式サイト、白井市教育委員会の説明パネル他より】


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