謂れとかたち
開運干支木彫雲龍(雑司ヶ谷鬼子母神)

雑司ヶ谷鬼子母神堂の由来
当山に祀られている鬼子母神(きしもじん)は、室町時代の永禄4年(西暦1561年)
雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土の地の辺りより掘りだし
星の井あたりで像を清め、東陽坊という寺に納めたもの
安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至る
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に
加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され
その後現在の規模に拡張されている
昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われた
もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてあった
法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって
鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められている

子母神の来歴
鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となってるが
もともとの来歴には深いいわれがある
その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で
嫁して多くの子供を産んだ
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので
人々から恐れ憎まれた
お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまった
その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく
お釈迦様は
「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めた
そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し
その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされている
【鬼子母神のホームページより要約】


開運干支木彫 雲龍


開運干支木彫 雲龍 正面上部より


開運干支木彫 雲龍 正面

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