龍のコンサート三昧
海外でのコンサート経験を中心にメルマガIDNに連載しました
2002年6月から12月の12回分を纏めました
龍のコンサート三昧2006と2008は下記よりごらんください
第 1回 | 昼は仕事、夜はコンサート | 020601 |
第 2回 | コンサート事始め | 020615 |
第 3回 | 来日演奏家との出会い | 020701 |
第 4回 | パリの小さな協会でのコンサート | 020715 |
第 5回 | ロンドンの秋葉原へ行った話 | 020801 |
第 6回 | さまざまなコンサートホール | 020815 |
第 7回 | オペラハウスへ何しに行くの? | 020915 |
第 8回 | 異国の夜の街は危険がいっぱい | 021001 |
第 9回 | ジャズもまた楽し―バッハとジャズ | 021015 |
第10回 | 海外でのチケットの入手 | 021101 |
第11回 | ブラームスが好き | 021115 |
第12回 | カーネギーホールとアメリカのクリスマス | 021201 |
龍のコンサート三昧 2006 龍のコンサート三昧 2008 龍のコンサート三昧 2010 龍のトップページへ |
第1回 昼は仕事、夜はコンサート
会社人生のなかで最初に海外出張をしたのは1973年、最後は1998年、25年間に8回欧米に出かけ、延べ18回のコンサートに行ったことになる。
昨年の9月に、これらのコンサート体験をその時々のエピソードを交えながら、IDN主催の「海外旅行体験クラブ(現在休眠中)」で話す機会を得た。海外出張関連の資料は会社人生を終える時に必要なものだけを厳選して会社に保存し、残りの大半は処分した。そのなかでコンサート関連の資料は未整理のまま箱に詰め込んで自宅に持ち帰り、倉庫に保管して時間的な余裕ができたら整理しようと思っていた。たまたま昨年の春IDNの会員になり、「海外旅行体験クラブ」を知ってスピーカーを志願した。この機会に、一気に資料の整理を行おうとしたがかなり難航した。出張した年月日・訪れたホール・演奏曲目・演奏者に加えて、出張の目的・コンサート以外のことなど印象に残ったことも書き加えた。今回の連載の目的は「遊」で始めたのであるが、はからずも三十数年の会社人生を総括することにもなった。海外でのコンサートは、昼間に視察や訪問などの仕事をし、皆が食事やお酒を楽しむ夜のフリーな時間に出かけることになる。まだインターネットもない時代に、夕方到着した街でコンサート情報をいち早くキャッチした上に、初めての街へ夜出かけていくには、かなりのノウハウと勇気も必要であった。音楽会のシーズンオフの時期やオーケストラが海外公演中であったり、チケットが売り切れていたりと恵まれない時も多かった。ちなみに、1989年にヨーロッパへ出張した時には、14泊のうち5回もコンサートに行ったことがあったのは自分でも驚いている。18回の体験のなかには、思いもかけないコンサートに行ったこと、印象に残ったこと、楽しかったこと、人との出会い、夜の街で恐い思いをしたことなど、想いでは尽きない。これからメルマガの紙面を借りて、海外に限らず、コンサート体験を中心に多少脱線しながら「よしなしごと」を綴ってみたい。おそらく自己満足の域を出ないかもしれないが、多少とも興味を持って読んで下さる方、「声」をお聞かせいただければ幸いである。
龍のコンサート三昧(昼は仕事 夜はコンサート)の記録
第2回 コンサート事始め
私がクラシックをまともに聞いたのは大学に入って間もないころ、新入生歓迎のレコードコンサートである。そのとき聴いたのが、若き日のレナード・バーンスタインとニューヨークフィルの「ドボルザークの新世界」だった。私が生まれたのはS県の三日月村というところで、およそクラシックとは縁の遠い環境だった。10代の後半、春日八郎の「別れの一本杉」、三橋美智也の「おんな船頭歌」、美空ひばりの「波止場だよおとっつぁん」などが全盛の時代で、島倉千代子の「この世の花」がドラマの主題歌でラジオから流れていた。このような環境で育ち、1200kmも離れた東京に出てきて、何でも見てやろう、体験してみようと意気込んでいた時に出会ったレコードコンサートだった。曲目は他にもあったかもしれないが、「バーンスタインの新世界」は強烈なインパクトがあった。ダイナミックななかにも哀愁を込めた演奏に感銘を受け、クラッシックを聴いてみようと思ったのが、私にとっての「コンサート事始」である。まずラジオの音楽番組を聴くことから始まった。当時のラジオでは、NHKの第一と第二放送、文化放送とニッポン放送でたまにステレオ放送を行っていた。FM東京がモノラルの試験放送を開始したばかりのころである。FM東京ではモニターを半年間やったこともある。「バーンスタインの新世界」の次に、多くの人の例にもれず「運命と未完成」のレコードを買った。指揮はワルターではなくクリュイタンス、演奏はベルリンフィル、赤いレーベルのエンジェル盤だった。(当時コロンビアのLPが2000円、ビクターが1800円と記憶している)下宿先のおねえさんが新宿のコタニに勤めていたので、三割引で買ってもらえるので大変ラッキーだった。卒業する頃には、再生装置も買うことが出来た。今思うと、レコードの内周での歪みがひどく、聴くに耐えないものであったが、そのひどさは後になって知ることになる。
当時、NHKホールは内幸町にあり、東京文化会館が最新鋭のコンサートホールだった。「労音」にも入り、コンサートに通いはじめた。N響のメンバーになったのは社会人になってから、シーズンを通して継続する人に優先権があり、新メンバーは残りの席を確保するのがやっとだった。最初はとにかく席を確保して、次のシーズンには徹夜をしてよい席を確保したことも懐かしい想い出である。ラジオ放送に始まり、レコード、コンサート、それに海外でのコンサートを体験、さらに「レコード芸術」から得た知識が加わって、私の音楽三昧は今日に至っている。第3回 来日演奏家との出会い
1965年春に社会人になり、大阪の本社で研修をうけながら最初の1年間を過ごすことになった。関西でのコンサートの回数は東京に比べて格段に少なかったが、朝日フェスティバルホールでの演奏会に通い始めることから、社会人としての「コンサート三昧」が始まった。
カラヤンとベルリンフィルが来日し、東京はもちろん大阪でも演奏会が開催されることを知った。1年間の研修期間が終了した後の配属は東京との予感もあったが、何処になるか不明だったのでずいぶん迷った。結局東京にいた妹にたのんでチケットを確保してもらった。研修期間が終了して幸運にも東京勤務になり、5月に東京文化会館でカラヤンとベルリンフィルによるブルックナーの交響曲第8番を聴くことが出来た。
1969年にカール・リヒターとミュンヘンバッハ管弦楽団と合唱団が来日した。リヒターは1926年東ドイツ生まれ(~1981)で1951年にミュンヘンバッハ管弦楽団を組織した。1958年にマタイ受難曲、1961年にロ短調ミサ曲、1964年にヨハネ受難曲、1965年にクリスマスオラトリオを録音。我が国でもレコードを聴く事が出来たが来日が待たれていた。日生劇場の向かいには以前の帝国ホテルがあった。村野藤吾が創ったホールの中で天井にちりばめられた「あこや貝」を見ながら開演を待った。導入部の序奏に続き合唱が始まった時から圧倒され、次々と繰り出される音楽に引き込まれた。これまで通ったたくさんのコンサートに優劣をつけるのは好まないけど、この演奏会は最高だった。
この演奏会の後、リヒターが行なった武蔵野音楽大学のベートーベンホールでのオルガン独奏も聴きにいった。オルガンをまともに聴いたのは初めてで、それがリヒターであったのは幸せだった。リヒターのオルガンに挑むような姿勢に若干の違和感を感じたのは、ヴァルハのレコードによるバッハ演奏に聴きなれていたことがその原因であろうか。
オーケストラでは、サントリーホールオープニングシリーズで来日したアッバードとウイーンフィルによるベートーベンの交響曲第4番と第7番の演奏がすばらしかった。通常は右手後方のコントラバス奏者を舞台の最後部に横1列に並べて、低音域のバランスに配慮していたことも印象に残っている。
ピアニストの中では、バレンボイムのブラームス(二つの協奏曲)・ブレンデルのベートーベン(最後の三曲)・ヘブラーのモーツァルト・ゲルバーのブラームス・ルプーのシューベルトなど。
ブラームスのコンチェルトの冒頭、流れる汗を拭いながら待っていたオイストラフ、冬の旅を歌ったスクットした62歳のフィッシャーディスカウ、体調が回復したパネンカとスークの共演、東京芸術劇場で3台のオルガンを弾き分けたコープマン、チェロの演奏に没入してしていた若い頃のロストロポーヴィッチ、二晩に分けてバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲を演奏したマイスキー等などが記憶に残っている。
スメタナ弦楽四重奏団が引退して、次の時代を担うアルバンベルク弦楽四重奏団の演奏会に6回通った。アルバンベルクの精緻な演奏を遺憾無く発揮した、ベートーベンの第14番(1987サントリーホール一周年記念)・シューベルトの死と乙女(1993サントリーホール)には感動した。もちろん彼らのモーツァルトの演奏も大好きである。
バイオリンのヘンリック・シェリングは1988年5月に来日が予定されていた。バッハの無伴奏パルティータ第3番を聴きたくてチケットを購入し来日を待った。しかし、その年の3月に演奏旅行先で倒れそのまま69歳で死去した。泣く泣くチケットの払い戻しにいったのはこの時が最初で最後である。
第4回 パリの小さな教会でのコンサート
1989年の秋にヨーロッパへ行く機会があった。最初の訪問地ヘルシンキでは、国立オペラ劇場でモーツアルトの「コシ・ファン・トッテ」のとてもシンプルなオペラを見た。次に訪れたロンドンではロイヤルフェスティバルホールで、ユーリ・シモーノフ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏で、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」ほかを聞く事が出来た。
パリでは前回もツキがなかったが、ガイドブックによるとその夜もオペラ座・パリ音楽劇場ではコンサートの予定はなくがっかりした。ガイドブックのなかで最後に目についたのが「LES TROMPETTES DE VERSAILLES」という記事だった。日付も合っているし住所も書いてあるように読めた。例によってコンセルジュでたずねたが、ラチがあかない。半ばあきらめかけて通訳のTOSHIROU(彼の事も書きたいが長くなるので省略)さんに尋ねたら、それは1200年代に造られた小さな教会だと教えてくれた。さらに彼は自分の地図を取り出して協会の場所を調べ私の持っていた地図にしるしをつけてくれた。
夜9時開演の時間を計ってタクシーで出発、同じ道を2回走ったり場所を聞いたりしながらタクシーがとまって、ここだと運転手の身振り。暗い前庭の奥に小さな明かりが灯っている教会が確かにあった。前提の細い小道を通り、入り口でチケットを求めて中に入ると高齢の女性が席に案内してくれた。少し落ち着いて周りを見渡してみると、内部はほの暗く、座席数は150程度で、正面の祭壇の横に田舎の教室にあったのより一回り大きいオルガンが置かれていた。硬い椅子に座って待っていると、別の高齢の女性が籠を持って回ってきたので前の人にならって少額の紙幣を籠に入れた。
9時を少し過ぎた頃客席はほぼ満員となり、トランペットを持った2人とオルガン奏者が登場し演奏が始まった。前半はビバルディ・ヘロン・ウェーリンク・マルセロの曲。2本のトランペットの音は高い天井の空間に吸い込まれながら柔らかくて心地よい響きとなって降りてきた。オルガンの素朴な音は空間に広がった。休憩時間には、皆が思い思いに壁面の絵を見たりして過ごした。オルガンに近づいてよくみると、相当に古くつぶれているパイプも見受けられた。置いてあるスコアは手書きであり、演奏会そのものが手作りだと感じた。後半はパーセル・マルティーニ・マンフルディーニなどの小品が演奏された。オルガンのソロで演奏されたバッハの「フーガト短調」の他はほとんどが聴きなれない曲だった。美しい音に聞き惚れているうちにアンコールの演奏も終わり、静かではあるが心のこもった拍手のうちに演奏会は終了した。
時は11時、前提を通りせまい道を抜け、ノートルダム寺院を右手に見ながら2つの橋を渡り、当日はコンサートの無かったパリ音楽劇場の前を通りシャトレ広場に出た。タクシーをつかまえ運転手に身振りも交えて頼んだら意志が通じたらしくシャンゼリゼ通りを走ってもらうことができた。通りは混んでおりまだ明るく華やかだった。凱旋門のずっと向こうにはデファンスにつくられた新しい凱旋門が青白くほのかに光っているのが見えた。
ホテルに帰り着いた時は12時を過ぎていた。バーでビールを飲み、さらにコニャックを注文し、少し疲れたけれどすばらしかった夕べのひとときを思い起こした。その時には、その後訪れたチュリッヒで、オペラハウスの最良の席でプッチーニの「ラ・ボエーム」を楽しみ、その翌日にはトンハレで、プーランクの「カルメル教会修道女の対話」(フランス革命200年記念特別公演)を聴く幸運が待っていることは知る由もなかった。
第5回 ロンドンの秋葉原へ行った話
現在我が家には、真空管アンプとデジタル時代には骨董品ともいえるスピーカーが鎮座している。若い頃には、レコードを聞く装置にもずいぶんのめり込んだが、ある時期から装置よりもソフト(当時はレコード)やコンサートに行く事に興味を移した。
スピーカーの種類は多く、気に入ったものは値段が高く選択に苦労した。1960年代の後半のこと。銀座の日本楽器の1階奥にオーディオ装置の試聴室があった。アンプ・スピーカー・プレーヤー(勿論カートリッジの交換も)を組み合わせて好きなレコードを聞く事が出来た。何回も通っているうちにお店の担当者とも親しくなり、私の好きなスピーカーも彼の知るところとなった。ある日彼が、「このスピーカー売りますよ、安く」といった。お目当てのスピーカーは、イギリス製のGOODMAN AXIOM 301のオリジナルを完全にコピーしたもの。箱の形状と材質は勿論、バスレフの開口部にはARU(アコースティック・レジスタンス・ユニット)が取り付けられ、箱の表面には桜のつき板が貼られていた。箱は充分に乾燥しておりいい状態だったが、スピーカー本体は酷使されており劣化が心配だった。相談のうえスピーカー本体を新品に交換してくれることになり、めでたく我が家の一員となった。
1972年の夏に、コンペの応援のために大阪へ転勤する事になった。半年間だったが装置一式も西宮へ運んだ。行きには問題なかったが、半年後に戻って梱包を解いたら、スピーカー本体が2本とも箱から外れて下に落ちており1本はフレームが折れていた。JRからは1本分の補償をしてもらったものの、その時には品物が無く新たに購入する事が出来なかった。
ちょうどその頃、ヨーロッパへの出張の話がありロンドンがコースに入っていた。ロンドンではロイヤルフェスティバルホールで海外初のコンサートを体験した。最終日の午前中で仕事関連行事もすべて終了し、夕方ヒースローを出発するまで自由時間があった。ホテルで場所を教わってスピーカーを買うべく出かけた。ロンドンにも電気製品やオーディオ部品を売っている「ロンドンの秋葉原」があった。何軒か店をのぞいたあと目指すスピーカーを見つけて交渉を開始した。こちらの英語も貧しかったが、お店の若い男性の言う事がさっぱりわからない。時間だけ過ぎて焦ったが、そのうちに彼は黙っていなくなり年配の男性を伴って戻ってきた。筆談も交えて結局分かった事は、私が欲しかったフルレンジの(一本のスピーカーですべての周波数帯域をカバーする)スピーカーはないということだった。1本のスピーカーが壊れたために、スピーカーシステムとして機能しなくなり、途方にくれて帰国した。
音楽のない生活を余儀なくされて寂しい時を過ごした。しばらくしてある雑誌の装置交換ページの「求めます」の欄に投稿してみた。すぐに譲りたいというひとが現れ、早速訪問した。私はスピーカー本体が2本あればよかったが、そのひとは箱も一緒に引きとてくれという。一時期せまい我が家にスピーカーが4台存在することになった。その時引き取ったスピーカーの箱は、Y社で製作したもので、形状は同じだがかなり異なっていた。スピーカー本体を2種類の箱に取り付けて音質の差の聞き比べも試みた。箱は2個で充分なので、再び同じ雑誌の「譲ります」の欄に投稿したら、欲しいというひとが現われた。彼は大変に喜んで2つの箱を引き取ってくれた。
このような経緯を経たスピーカーは今も健在である。今はもっと性能の良いスピーカーがたくさんあるが、CDのはっきりした音源に真空管アンプとこのスピーカーの組み合わせによる、人の声やピアノの音を気に入っている。もしこのスピーカーが壊れたら、次に何を求めるか途方にくれると思う。
ところで、壊れたスピーカーは処分したが、もうひとつは天袋の奥に保存されているはずである。現在住んでいるところに引っ越して以来20年以上その姿を見ていないが、探し出して棄てる気にはならない。
第6回 さまざまなコンサートホール
大学に入学した1961年の「コンサート事始め」を経て、建築の勉強をしながら3年が経過した。4年生になると、卒業論文と卒業設計の大仕事が待っていた。卒業論文には「くどづくり民家」をとりあげた。夏休みの暑い盛りに実地調査も終え秋口には論文を完成した。落ち着く間もなく次は卒業設計である。幾つかの候補の中よりコンサートホールを課題にしようと考えた。
当時は、1958年に大阪のフェスティバルホールが完成し、1961年に東京文化会館がオープンした。東京文化会館は、2300席を有する本格的なコンサートホールとして計画されたもの、バルコニー席も設けオペラハウスの形式も取りいれられている。我が国でも本格的な音楽ホールの幕開けとも言える時期であり、その後全国にたくさんのホールが作られた。
音楽ホールを形により大雑把に分類すると、シューボックス型(靴箱型・直方体型)、扇型、ワインヤード型(ぶどう棚型・アリーナ型)、バルコニー型(劇場型)などがある。H・シャローウンが設計したベルリンのコンサートホールが完成したのが、1963年のことである。このホールは「カラヤンのサーカス小屋」とも呼ばれ、当時の海外の建築雑誌でも斬新な設計として評判になった。ワインヤード型の特徴は、正面の客席がメインだが、ステージの両袖と後方にも客席を配置し、客席がステージを取り囲んでいる。ステージ周辺に客席が配置されるため、一定の人員を収容するのに、舞台と客席の距離を短くする事が出来る。聴衆もお互いの顔を見ることになり、聴衆の一体感も高まる。最も多く配置される正面席においても、ステージと客席の距離が短くなり音響設計上も有利な点が多い。我が国では、サントリーホールがこの形式のホールとして良く知られているが、その完成は1986年まで待つことになる。
卒業設計としては、ワインヤード型のホールをテーマにしようと決心し、完成したばかりのベルリンの新しいホールが掲載されている海外の雑誌を数種類入手した。ドイツ語は読めなかったので英語の文献や図面・写真でその内容を知った。しばらくして、日本の建築雑誌にも取り上げられ、設計者の意図等も直接知った。卒業設計の中では、法的に満足していることやすべての客席からの見やすさなど、客席の配置に手間取った。悪戦苦闘の結果、A1版が何枚になったかは忘れたが、すべてロットリングで墨入れをし、外観と内部のパースも画いた。これが1965年の初め、大学を卒業した年のことである。
卒業設計でホールを取り上げたこともあり、以来ホールには興味を持ち続けている。海外出張をする時には会社の音響の専門家に、訪問する都市の有名なホールを教わって出かけた。オペラハウスも含めて14のホールを訪れた。その中でも、ロンドンのロイヤルフェスティバルホール、ニューヨークのアベリー・フィッシャー・ホール、チューリヒのトンハレなど印象に残っている。
1995年秋に念願のボストンシンフォニーホールを訪れた。当日の切符は売り切れだったが、幸運にもホールの前であるご夫人に切符を譲ってもらった。そして、ハイティンク指揮のボストン交響楽団によるマーラーの交響曲第9番のリハーサルを聴いた。リハーサルを公開する習慣は日本には少ないが、その夜は全楽章が完全に演奏され、有名な4楽章の冒頭は2回も演奏された。ボストンのホールの印象を言葉で表現するのは困難である。建築としての構造体の内側に床・壁・天井が造られ、これらの内被が一体となり楽器みたいな響きを醸し出しているように感じた。
ムジークフェラインザールでウイーンフィルを、ベルリンのホールでベルリンフィルを聴いてみたいとずっと願っていた。2年ほど前に絶好のツアーがあり出かける準備を始めようとしたが、母の具合が悪いことがわかりあきらめた。近い将来に夢を実現させたいとチャンスをうかがっている。
第7回 オペラハウスへ何しに行くの?
1992年の秋にイタリアへ行く機会があった。日本の建築研究所とイタリアの同じ機関が共同研究を行なっており、毎年交替で会議を開催していた。その年は、カプリ島で会議が予定されていた。テーマは建築と情報。民間からの事例などのプレゼンテーションをして欲しいとの要請を受けた。会議に出席することにし、面倒な社内調整を行なった。
実は「カプリ島」へ行くのも魅力的だった。カプリ島は、ジャン・リュック・ゴダール監督、ブリジッド・バルドー主演の映画「軽蔑(1963年)」の舞台となったところで、イタリアのリゾート地の、明るい太陽と青い海と緑の島の白い建物が鮮烈な印象として記憶にあった。
日本からの出席者はそれぞれ別ルートでミラノの空港に集合した。イタリアでの初日の夜は全員で会食をし、日程や役割の確認などを行なった。二日目の夜は、食事を希望する人が多い中で、Y先生と私が音楽会に行くことになった。
10月19日のスカラ座はオペラシーズン開幕の直前で、当日の夜はコンサート。ユーリ・テミルカノフ指揮サンクトペテルブルグフィル(旧レニングラードフィル)の演奏会が予定されていた。
小雨の中をスカラ座へ出かけて行った。チケット売り場へいってみると長い行列ができていた。ともかく行列の最後尾に並んだ。皆和やかに談笑しながら前進していったが、もう少しと言うところで切符は売り切れ。行列の人たちは多少不満気な顔をしながら三々五々引き上げていき、二人は取り残された。
がっかりして我々も帰ろうとしたが、未練げに切符売場のあたりを見渡してみると、まだ開いている窓口があった。誰も並んでいない窓口で尋ねてみると、チケットはまだあるという。あの行列は何だったんだ!当日売り(安い席)の行列だったと、あとでY先生とうなずきあった。ヨーロッパでの音楽会のチケットとしては高かった。案内の人につれられてロビーを横切り階段を昇り、3階の外周の通路から中に入ると小さい前室があり、カーテンを開けるとその先に席があり、そこから舞台と1階の客席を見下ろすことができた。
我々の席は三階のほぼ正面のバルコニー席だった。バルコニー席は6席だったと思うが定かに記憶していない。最前列の席に座ってビックリした。何とその席は舞台の方を向いていなくて二人が対面して座るようになっており、首を90度回して舞台を見ることになる。二つの席の間隔は、ちょうど膝が触れる程度離れていた。
スカラ座のバルコニーの席に座って、Y先生を目の前に、膝が触り、横を向いて舞台を見ている時に、ルノアールの一枚の絵を思い出した。「桟敷席」と言う黒を主な色調にした絵。金髪と胸にバラをあしらい、着飾った美人の女性が正面に描かれている。右後方の男性はそばに美人の女性がいるのにオペラグラスであらぬ方を見ている。きっと視線の先には別の女性がいると想像される。(私の所有している画集の解説を良く読んでみると、この男女は姉と弟と言うことだが・・・)
スカラ座の最高の席は、オペラを見るのは二の次で、社交の場でもあることを悟った。 その夜は、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」と交響曲「悲愴」がメインのプログラムだった。ロシアのひとたちが演奏するロシアの音楽を堪能したあと、スカラ座のレストランで遅い食事をしながらY先生とその日の体験と幸運を祝福した。
第8回 異国の夜の街は危険がいっぱい
1982年にアメリカへ行く機会があった。アメリカで新しい建物のコンセプトとして提唱されていた「インテリジェントビル(スマートビルとも呼ばれていた)」を調査するのが目的だった。シカゴからニューヨークに移動し、インテリジェントビルを標榜している新しい建物や、働く人のための快適性を徹底的に追求した執務空間などを調査した。
ニューヨークに滞在して三日目の午後、泊まっていたヒルトンホテルからチケットを買うためにリンカーンセンターへ行った。地図で確かめると歩いて行ける距離。6Th Aveを北に向かい57 stを左に曲がってカーネギーホールの前を通り、コロンバス サークルから北西に歩くとすぐにリンカーンセンターに至る。切符売場のおじさんは大変親切で、席を探すのを手伝ってくれ、当日は正規のプロクラムの前にプレコンサートがあるので是非聞きなさいと薦めてくれた。
一旦ホテルに戻り、プレコンサートの開始時間に合わせて出かけた。リンカーンセンターの中心部の広場に入ると、正面にメトロポリタンオペラハウス、右にコンサートホール、左に劇場が配置されている。その奥にアリス・ターリー・ホールとジュリアード音楽院が配置されている。コンサートホールは、「ニューヨーク・フィルハーモニック・ホール」と言う名前で1962年にニューヨーク・フィルの本拠地として開場した。音が悪いと不評で改修に改修を重ね1976年に完成。名称も寄付をした人の名前をとって「アベリー・フィッシャー・ホール」と変更された。 その夜のプログラムは、ロバート・ショウ指揮、モーストリー・モーツアルト・フェスティバル・オーケストラ、ウエストミンスター合唱団とソリスト達による大規模なもの。曲目は、モーツアルトの「ヴェスペレK339(荘厳晩課)」、ベートーベンの「ミサ曲ハ長調Op86」、ハイドンの「交響曲87番」だった。ロバート・ショウやウエストミンスター合唱団は有名で、レコードではよく聞いたが、彼らがすぐ目の前の舞台上に居た。
演奏会が終了し、気分も上々で帰途についた。ホテルまでの道のりは、昼間に往復し夕方に歩いて来た道。ぼんやり歩いていたせいか道に迷った。通りの歩道を歩いて行くうちに変だと気がついた。通りに面したお店からは歩道まで人(ほとんどが黒人)があふれている。道に迷った時は元に戻れ、と言う言葉を思い出して、道を引き返した。しかし、事際に歩いた距離や時間の感覚が麻痺して歩き始めたところが分からない。再び同じ道を戻った。通りにいた人が、行きつ戻りつしている私に気がついて声をかけて来る。困りはてたが道を尋ねるのも恐かった。しかし、車道を良く見るとタクシーが走っていた。行く先のホテルの名前を告げると、運転手は怪訝な顔をして、すぐそこだ、と言う。でも乗りたいと顔で示したら、乗せてくれた。やれやれと思う間もなくタクシーはホテルの前に止まった。
後で地図を見たら、コロンバスサークルから斜めに南東の方へはいるのを間違えてホテルの通りの3本西の通りを南下していた。リンカーンセンターはセントラルパークの西側のスラム地区を再開発したことを後で思い出した。ニューヨークで高速道路のおり口を一つ間違えてスラム街へ迷い込んで恐い目にあったと聞いていたことがある。徒歩の距離でも何本か向こうの通りはまったく違った性格の街。これもニューヨークの特徴か。
ニューヨークを発つ最終日の午後、ヘリによる空中散歩を楽しんだ。イーストリバーのほとりにある国連ビルのそばを飛び立ち、セントラルパークの北端まで北上、パークを眼下に見ながら、南方にエンパイアステートビルが見え、そのずっと向こうにワールドトレードセンター(WTC)の二本のタワーが見えた。へりはマンハッタンを見下ろしながら南下。マンハッタンは、高層ビルの立ち並ぶ近代的な街と低い建物がびっしりと敷き詰められた茶色に見える街の対比が印象的だった。ヘリはWTCの中腹を横に見ながら海上に出て、自由の女神の像を一回りして、イーストリバーを北上し飛び立ったところへ戻った。その時撮影した写真には、WTCの壁面のアップや建物の足元が写っている。今空中散歩をしても、マンハッタンの南端に懐かしい2本のタワーを見ることはできない。
第9回 ジャズもまた楽し―バッハとジャズ
SALENA JONES(サリナ・ジョーンズ)
かつて、43号線から芦屋川を少し下ったところに「PLAY BACH」という名の店があった。シックな作りの内装と家具で構成されており、壁にはオープンリールのテープデッキが2台組み込んであり、ジャズが常に流れていた。ジャズを聴きながら食事とワインとお酒類を楽しむことができた。東京にも同じ名前の店が六本木・銀座・渋谷等に何軒かあったが、仕事で関西へ行った時によく通った。1980年代の中頃に「GOOD DAY CLUB JAPAN」と言う名前で六本木と表参道に新たなコンセプトで出店するので行って欲しいと案内書をもらった。この二つの店では時々海外のアーティストを招聘しライブの演奏が行なわれた。演奏がレコード化されることもあった。
1990年の夏に「サリナ・ジョーンズ&ティー・カーソン トリオ」のディナーショウの招待券をもらったので六本木の店へ出かけた。「サリナ・ジョーンズはニューポート・ニューズ生まれで、歌唱には洗練されたスマートなセンスがあり黒人独特のソウルフルな迫力があって一味違った魅力になっている…」とその時の解説に書いてある。ティー・カーソンは当時、カウント・ベーシー楽団で活躍していたピアニスト。その夜はいつになく華やかで、お客も独特の雰囲気を醸し出していた。すぐそこで歌っているサリナ・ジョーンズの歌を聴きながら、ワインと食事を楽しんだ。
その週末、テニスの仲間に誘われて、本場のアメリカンフットボールのエギジビションを東京ドームへ見に行った。試合開始前のセレモニーでアメリカ国歌が女性の声で流れてきた。何処かで聞いた声だと思って良く見たら、何とそれがサリナ・ジョーンズだった。
RON CARTER(ロン・カーター)
近年、ジャズの演奏者がクラシックの曲を演奏するのを見かけるようになった。ただクラシックをジャズで演奏するのではなく「クラシックとジャズが融合した(フュージョン)新しいジャンル」について話題になっている。ジャック・ルーシエやジョン・ルイス、キース・ジャレットやチック・コリア、ウイントン・マルサリスなどもクラシックに取り組んでおり、私も彼らのアルバムを買って演奏を楽しんでいる。
ロン・カーターの名前は、ジャズのレコードの中でたくさん見ることが出来る。彼を特に意識したのは、ジム・ホールとのデュオアルバム「アローン・ツゲザー」を聞いてからである。ロン・カーターは当初、クラシックを目指し、音楽修士号を授与されているが、チコ・ハミルトンのグループの一員として活動を開始しマイルス・デイヴィスのクインテットに迎えられて、ジャズベースの第一人者となり今日に至っている。
ロン・カーターは1985年にバッハの「無伴奏チェロ組曲」を彼自身が編曲して録音し、アルバム「ロン・カータープレイズ・バッハ」を、1991年にはバッハの小曲を録音し、アルバム「ロン・カーター・ミーツ・バッハ」出した。「無伴奏チェロ組曲」では、6曲の中から選曲しピチカート奏法で演奏しており、彼のバッハへの取り組み姿勢や演奏方法に興味を持った。
そのロン・カーターが演奏会を行なうことを知って、津田ホールに聴きに行った。「SUGAW A meets RON CARTAR」と名づけられたコンサートで、サックスの須川展也とのデュオにストリングカルテットがバックについていた。舞台での彼はにこやかで優しい感じだった。ロン・カーターのコンサートを聞くことができるとは思ってもいなかったので、この日は大変に満足した。
コンサートの終了後、サイン会が行なわれた。長い行列に並び、私は発売されて間もない「Orfeu(オルフェ)」のCDのジャケットに、「Thanks Ron Cater」のサインを、そして握手もしてもらった。分厚い手の感触が残っている。
第10回 海外でのチケットの入手
海外で18回コンサートに行った。かつては、現地に到着しその街の案内を見るまで、どのホールでどんな演奏会が行われるか知ることが出来なかった。その土地のオーケストラが海外演奏旅行中であったり、シーズンオフの時は不運を嘆くしかない。コンサート予定されており、チケットを入手出来ることは幸運なことである。
1.ホテルのコンセルジュに予約を頼む
私の場合の海外出張は視察や調査が多かったので、その街での滞在はほとんどが一泊から三泊だった。夕方ホテルに到着し、街の案内書でコンサートの予定を探し、コンセルジュにお願いしてチケットの有無を確かめてもらう。チケットの残があれば予約を頼むわけであるが、ホールの席を選ぶところまでは期待できない。欧米での普通のコンサートの料金はそんなに高くないので、良い席(料金の高い席)を依頼する。ホールの窓口に行き、名前を言って代金を払いチケットを受け取る。私の場合このケースが最も多かった。
2.ホテルのフロントで発券してもらう
これはまれなことであるが、1989年にロンドンのロイヤル フェスティバル ホールへ行った時のこと。ホテルに到着して、フロントに相談したら、「チケットはあります。ここで発券できますよ」とのこと。チェックインもそこそこに急いで出かけ、ホールのグリルで食事をし、開演を待った。
3.窓口で買う
最も一般的な方法であるが、私の場合そんなに多くない。事前に窓口で購入する場合と開演前に購入する場合がある。座席の配置図を見せてもらって、空席の中から希望の席を選択する。
最初にロイヤル フェスティバル ホールへ行った時のこと。ロンドン郊外での視察の帰りに休憩のために立ち寄ったのがこのホールだった。窓口でチケットを入手することが出来た。ホテルに一旦戻って、夕方の開演時間(欧米では8時か8時半の開演が多い)に少し余裕を持ってホールに出かけた。ホールのグリルで食事をして開演を待った。第7回に書いたミラノスカラ座の時もこのケースあたる。
4.ホールの前で譲ってもらう
コンセルジュを通しての問い合わせで「チケットは完売」と言われるとがっかりする。そんな時も、気持ちも時間も体調も良い時には、ホールの前まで行って見る。ボストンシンフォニーの時は、幸運にもホールの前で、ある女性からチケットを譲ってもらうことが出来た。急用で聴く時間がないとのことで、正規の価格で譲り受けた。ハイティンク指揮でマーラーの「交響曲第九番」を聴いた。ホールの前にはダフ屋も居ると思われるが、ダフ屋からの入手した経験はない。
5.旅行社に依頼する
現地でサポートしてくれる旅行社の人に依頼する。視察の朝お願いしたチケットを夕方ホテルに戻った時に受けとることなどまれであるが、大変にうれしいこともある。ヘルシンキのオペラハウスへ行ったのはこのケース。
最近はインターネットで講演予定を事前に知ることが出来るので、出発前に旅行社に依頼する。座席や価格の条件を示すと、現地の旅行社の人がチケットを購入してくれる。勿論このケースでは旅行社に手数料を支払う。事前にチケットが入手してあると、気分的にゆとりがあるし、コンサートへの期待も膨らむ。1998年にカーネギーホールへ行ったのはこのケース。
欧米でのコンサートのチケットは形も小さく貧相なものである。入場する時には、無造作に半分ほど切り取るか、チケットを半分ほど破くのが普通である。チケットの半券は記念になると思うが、初期の頃のものは残っていない。ちょっぴり残念である。
第11回 ブラームスが好き
作曲家の中でブラームスが好きである。なぜかと問われても答えに窮するが、「ブラームスは努力の人である」こと、「ブラームスにはやさしさがあり、寂しさを共有できる」ことに共感できるとでも言おうか。
ブラームス(1833-1897)はロマン派に属する作曲家である。ベートーベン(1770-1827)の没後1年経ってシューベルト(1797-1828)が亡くなり、それから5年後にブラームスは生まれている。
ブラームスは第一番の交響曲を作曲するのに少なくとも14年、萌芽から数えれば21年の長期間をかけたとされている。交響曲については、ハイドン(1732-1809)やモーツアルト(1756-1791)が形を整え、ベートーベンが確固たるものにした。ブラームスは先人たち、特にベートーベンを研究していると思う。推敲を重ねベートーベンに迫る作品ができたら世に問うつもりだったが、ブラームス自身は第一番がベートーベンに迫ると納得出来なかったと私は想像する。批評家達は、ブラームスの第一番はベートーベンの『第九』のフレーズと似ているところがあると言う。また、第二番はブラームスの『田園』、第三番は『英雄』とも言っている。全くの私見であるが、第一番を作曲するに当たって最も参考にしたのは『英雄』であると思う。
ブラームスは第一番の交響曲でベートーベンにもない独自の世界を築き、後世の人に親しまれている。私はこの曲が大好きで、カール・ベーム指揮のベルリンフィルとウイーンフィル、ケルテス指揮のウイーンフィル、ミュンシュ指揮のパリ管弦楽団、カール・ベームとウイーンフィルの日本公演(VTR)などを大切にしている。
ベートーベンは確固たる信念の持ち主で、意図したことをやり遂げた作曲家である。苦難を超えて栄光へ、いわば成功ストーリーを曲にしている。ベートーベンからは活力と勇気をもらうことが出来る。しかし、人は苦しみながら努力しても最後に報われるとは限らない。私も時々妙にブラームスが懐かしくなることがある。そんな時に聴く曲の代表格として、クラリネット五重奏曲をあげよう。ウラッハとウイーンコンチェルトハウスSQのモノラル盤は本当に疲れたときや挫折感を味わった時にやさしく慰めてくれる。
映画『恋人たち』でルイ・マル監督が使って有名になった弦楽六重奏曲第一番も大好きな曲。アロノビッツ・プリースとアマデウスSQによる古い演奏が最も好きである。
ブラームスの演奏会で最も印象に残っているのは、『ブラームスの芸術』と名づけられた6回シリーズ(1993年)の演奏会。最初にプログラムを見たときに、私のために企画されてのではないかと思うほどで、毎回楽しみにして聴きに行った。4つの交響曲、二つのセレナーデ・大学祝典序曲・悲劇的序曲・ハイドンの主題による変奏曲・ハンガリー舞曲などの管弦楽曲、2つのピアノ協奏曲、バイオリン協奏曲、バイオリンとチェロのための協奏曲などが網羅されていた。
演奏は、東京都交響楽団の指揮を6人の指揮者が分担した。ソリスト達も園田高弘、清水和音、前橋灯子、堤 剛、竹澤恭子など、この時代の優れた人たちが登場している。都饗の音楽監督であった若杉 弘のコーディネート力のすばらしさを感じた。すべての演奏に熱気が感じられたが、中でもバイオリンコンチェルトにおいて、竹澤恭子の序奏につづくバイオリンの出だしは迫力があり強烈な印象として残っている。
第12回(最終回)カーネギーホールとアメリカのクリスマス
私がカーネギーホールを知ったのは、ラジオから流れるハリー・ベラフォンテの「マチルダ」を聴いた、ずっと昔のこと。観客と一体になったライブの熱狂ぶりが印象に残った。後に買ったレコードの解説により、1959年4月19日と20日に行われた「ベラフォンテ・カーネギー・ホールコンサート」(ニュー・リンカーン学校及びウイルトウイック学校のための慈善コンサート)であることを知った。カーネギー・ホールは、クラシック音楽の殿堂としてクラシックの演奏家達にとっても憧れの場所であり、世に認められるための登竜門でもあった。
過去何度かニューヨークを訪問したが、いずれもクラシックのコンサートは予定されてなくホールを訪れる機会に恵まれなかった。
1998年にアメリカへの出張でニューヨークに2泊することになった。早速インターネットで調べてみると、クラシックの演奏会の予定はなくがっかりした。大ホールではTRIBUTE TO STEPHAN GRAPPELLIという催しが予定されていた。ステファン・グラッペリについてほとんど知識がなかった。出発前の慌ただしさもあり、事前に詳しい調査もせず、カーネギーホールを体験したい一心で、旅行社に切符の手配を依頼し出発した。
12月2日にシアトルに入り米国ツアーを開始した。1998年は米国の景気が最高潮を迎えている時であり、国民の心意気も高まっているのが感じられた。12月初めの米国はクリスマス一色で、いたるところで見た巨大なクリスマスツリーからも元気な米国を見た。最近の海外旅行では写真を撮る量が極端に少なくなっているが、この年はニコンFを常に使える状態にして移動した。
サンフランシスコ(SF)ではマイケル・トムソン・トーマス指揮、エマニュエル・アックス(ピアノ)によるサンフランシスコ交響楽団の演奏で、ベートーベンの「ミサ曲ハ長調」、アダムスの「センチュリー・ロール」を聴いた。
SFでは「ユニオン・スクウエア」・「ピア39」のツリー、トロントのシェラトンセンターのツリー、シアトルのスペースニードルのサンタ、ピッツバーグの街角のツリー、ヒルトン・ピッツバーグ&タワーのお菓子の村、シカゴのマーシャルフィールズ・デパートのデコレーションなど、を写真に収め、9日の夕方最後の訪問地ニューヨークに着いた。
9日の夜は、エリオット・カーターの90歳記念コンサートが行われており、アリス・ターリーホール(リンカーンセンター)へ行った。リンカーンセンターのひろばの中央に造られたツリーも目をみはるものだった。10日は日帰りでワシントンへ。ワシントンでは議事堂前の巨大なツリーと有名なホワイトハウス前のツリーを見たが、昼間のことであり夜の素晴らしさを想像するほか無かった。
米国滞在の最後の夜、以前は前を通る事しかなかったカーネギーホールに行った。開場と同時に中に入りまず自席を確かめ、ロビーへ出て階段を上がりバルコニー席の後ろの通路をビール片手に散策した。有名な演奏家達の写真が展示されており、ホロビッツなどの若き日の姿を見たりしながら開始の時を待った。
当夜はジャズバイオリニストのステファン・グラッペリが亡くなって一周年の記念コンサート。8時にCBSのPAURA ZAHNの司会で開始された。グラッペリにゆかりのあるミュージシャンが一同に集まり、観客との和気あいあいの中で3時間あまりの演奏が繰り広げられ、私も本場のジャズとカーネギーホールを満喫することができた。
11時過ぎにコンサートが終了し帰途に就いた。NYの街の一人歩きは危険を覚悟しなくてはならないのに、57Stから38Stのホテルまで歩いて帰った。途中ロックフェラーセンターに立ち寄った。テレビのニュースで良く見るツリー(1931年から恒例とのこと)の周辺は11時半も過ぎているのに人であふれておりスケートリンクでは大勢がスケートを楽しんでいた。当時の米国の縮図を見る思いがした。
翌日JFK空港より帰途についた。北方のマンハッタンのスカイラインにワールドトレードセンター(WTC)の二本のタワーが見えた。この時も珍しくニコンFを取り出して2回シャッターを切った。これがWTCを見た最後となり記念の写真になってしまった。「龍のコンサート三昧」も半年前に開始し12回を数えました。当初計画した12のメニューの幾つかを変更して書きました。毎回沢山書き過ぎることが多く、3分の1ほどカットすることもありました。内容に興味をもって読んで下さった方がたくさんおられることを知り大変うれしく思いました。読んでもらうことより自分の思いや言いたいことを優先して書いてしまったのではないかと反省しています。
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