龍の謂れとかたち
喜多院鐘楼門の花頭窓の雲龍
喜多院
喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)
良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の勅により慈覚大師円仁が創建された勅願所
当初は、阿弥陀如来、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と号した
無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした
寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺
仏像院北院を喜多院と改めた
慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められた、
寛永15年(1638年)、川越大火で山門(寛永9年建立)と経蔵以外の伽藍を焼失
翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿(皇居)の別殿を移築した
これが今に残る客殿、書院、庫裏
家光誕生の間、春日局化粧の間などがある
これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた
その後、慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などが再建された
鐘楼門
寛永15年(1638年)、川越大火で焼け残ったともいわれるが、細部意匠などから判断して
銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当
江戸時代の喜多院の寺域は現在より相当広く、鐘楼門は境内のほぼ中央にあった
慈眼堂へ向かう参道の門と位置づけられる
慈眼堂の場所には東照宮が建てられており、寛永の大火により、東照宮が現在の位置に移動し、跡に現在の慈眼堂が建
もともとは東照宮の山門だった
元禄15年(1702)の刻名がある鋳工椎名伊予藤原重休作の胴鐘を吊っている
銅鐘は、鐘楼門とともに重要文化財に指定されている
鐘楼門 外部より見る
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鐘楼門 内部より見る
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鐘楼門の龍の彫刻 外側より見る
鐘楼門の龍の彫刻 外側より見る
花頭窓の雲龍
鐘楼門は桁行3間、梁行2間の入母屋造、本瓦葺きで腰袴がついている
正面中央間を花頭窓とし、両脇間に極彩色仕上げの雲龍の彫り物を飾る
背面も中央間を花頭窓とし、両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫り物を飾る
雲龍 左側
雲龍 右側
喜多院山門の龍の彫刻
喜多院の五百羅漢〜龍三態〜
130607/09
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