日光東照宮江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る
日本全国の東照宮の総本社的存在
久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる
「東照宮」であるが「日光東照宮」とも言われる
家康本人の遺言
遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること
元和 2年 |
(1616年) |
徳川家康は駿府で死去
遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ
同年中に久能山東照宮の完成を見た |
元和 3年 |
(1617年) |
二代将軍秀忠が天海僧正に命じ
下野国日光に「東照社」として建てたのが始まり
社殿が完成し奥院廟塔に改葬される
家康死去の一周忌にあたる遷座祭が行われた |
寛永11年 |
(1634年) |
三代将軍・徳川家光が日光社参 |
寛永13年 |
(1636年) |
21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ
社殿への大規模改築が行われた |
石鳥居(一の鳥居高さ9.2M) 九州筑前藩主・黒田長政が奉納
唐銅鳥居(二の鳥居) 高さ:6M 寛永13年創建 徳川家光が奉納
陽明門(国宝)
陽明門は、建物全体がおびただしい数(508体)もの豪華な彫刻が施され
その美しさは一日中見ていても飽きないことから「日暮の門」とも呼ばれている
12本の白色の円柱をもつため十二脚門とも呼ばれている
門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの東の正門が陽明門と呼ばれていることに由来する
陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替
建築形式は三間一戸楼門
規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートル
屋根は入母屋造、銅瓦葺きで東西南北の各面に唐破風を付す
2013年から2017年までの4年間「平成の大修理」とよばれる大規模な修復作業が行われ
前回の改修が完了した1973年より40年ぶりに本来の美しい姿に修復された
陽明門 正面 門の最上部で鬼瓦がにらみを利かせている
陽明門 裏面
陽明門の二面の天井絵《雲竜図》
陽明門の中央の間(通路)の天井の2面に昇り竜と降り龍の《雲竜図》が飾られている
昇り龍は八方睨みの竜、降り龍は四方睨みの竜と言われる
現在は、門の外側(南側)にあるのが降り竜、門の内側(北側)にあるのが昇り竜
雲竜図のサイズ:2.1Mx1.3M
造替
大修理 |
年代 |
|
担当者 |
備考 |
寛永 |
寛永13年(1636) |
描く |
狩野探幽
またはその画派 |
原画は、保存用剥離止処置を3次に分けて施し
東照宮宝物館に保存されている |
昭和 |
昭和44年(1969)から
48年(1973)3月
|
復元 |
羽石光志画伯 |
栃木県出身 日本美術院同人 |
平成 |
平成25年(2013)から
平成29年(2017) |
再復元 |
澤田了司技師 |
日光社寺文化財保存会 |
*「原画を誰が書いたか?」、「昇り龍と降り龍の位置」については末尾に簡単な考察をしています。
降竜(南側)
降竜(南側)
降り龍 |
昇り龍 |
昇り龍
降り龍
<雲竜図を誰が描いたか>
① 寛永13年(1636年)寛永の大造替の時に描いたのは
狩野探幽、またはその画派とされる
②雲竜図は探幽自身の筆である可能性が高い
③昇竜:狩野探幽筆、降竜:狩野安信筆
(2面の作風に違いがみられる)
・昇竜が降竜より優れている
・竜の体やひげの動きが豊かに感じられる
・鱗の重なっている状態が様式化のうちにも実在感をもって捉えられている
・描線にニュアンスがある(耳の部分)
<昇り龍と降り龍の位置>
①現在は、門の外側(南側)にあるのが降り竜、門の内側(北側)にあるのが昇り竜
②古くは南側が昇竜、北側が降竜と呼ばれていたことがある
植田猛箱『日光山志』(天保8年刊)の雲竜図注記
「陽明御門御天井昇降の二竜、昇竜は外側にあり降竜は内の方にあり墨画墨隅なり」
|
天井絵の配置 2:降り龍 5:昇り龍
『国宝東照宮陽明門・同左右袖塀修理工事報告書』より転載されたもの
【河野元昭 『探幽筆陽明門雲龍図天井画について(上)』より】
file:///C:/Users/shobu-pc/Downloads/301_27_Kouno_Redacted.pdf
日光東照宮で出会った龍と仲間たち
220102
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