謂れかたち
上野東照宮の唐門にある左甚五郎の龍の彫刻2014

上野東照宮
元和2年(1616年)藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康に呼ばれ
末永く魂鎮まるところを作ってほしいと遺言された
寛永4年(1627年)に藤堂家の屋敷地に東照宮を造営した
家光は慶安4年に現在の社殿を金色殿として造営替えし、江戸の象徴とした
手前から拝殿・幣殿・本殿からなり、その様式を権現造りという
平泉の中尊寺光堂と並んで日本に二つしかない金色殿
明治40年に国宝指定
祭神:徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
【東照宮略記(現地の説明板)・縁起などより】

上野東照宮は、2009年1月から2013年まで修復工事が行われ、2014年から公開された


修復後の上野東照宮

唐破風造り四脚門
日本に一つしかない金箔の唐門(唐破風造り四脚門)
扉には亀甲の透彫り、門柱には左甚五郎作の昇竜・降竜の高彫
門の側面左右上部にある松竹梅に錦鶏鳥の透彫は精巧を極めたもの
明治40年に国宝指定
講談「名工甚五郎の水呑みの竜」の紹介を最後尾に
【現地の説明板より】

上唐門も修復工事が行われ、2014年から公開された
修復前の唐門は末尾に紹介している案内よりご覧ください


修復後の唐門


修復前の扉と龍の彫刻(2007)


修復後の扉と龍の彫刻 2014

左甚五郎作の昇龍・降龍の高彫
(唐門の外側)

偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれている
2009年1月から2013年まで修復工事が行われ、2014年から公開された

降り龍2014
(外側)
降り龍2007
(外側)
昇り龍2007
(外側)
昇り龍2014
(外側)



降り龍(左側)

昇り龍(右側)



降り龍(左側)

昇り龍(右側)


講談「名工甚五郎の水呑みの龍」
三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり四隅の柱に
甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせる
甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して
不忍池に水を飲みに降りるようになり大騒動となる
そこで甚五郎が「可愛そうだが足止めをする」と言って
金づちで龍の頭へくさびを打ち込むと、
その夜から龍は水を飲みに降りなくなった という話

寛永寺の跡地に昔の鐘楼と鐘は残っているが、鐘楼の四本柱に龍の木彫はない
すぐ傍の上野東照宮の金箔の唐門の四脚の額面に美事な昇り龍・降り龍の高彫りがあって、
東照宮ではこれが甚五郎作の「水呑み龍」だと伝えている
【YOMIURI ONLINE 講談師 神田松鯉 07/02/07 より要約】



左甚五郎作の昇り龍・降り龍の高彫
唐門の内側)

2009年1月から2013年まで修復工事が行われ、2014年から公開された


唐門の内側(修復後)と透塀  背後に五重塔を見る


唐門の内側(修復後

  
修復前の唐門(内側2007)

  
修復後の唐門(内側2014)


降り龍2014
(内側)
降り龍2007
(内側)
昇り龍2007
(内側)
昇り龍2014
(内側)

偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれている


降り龍(内側左)

昇り龍(内側右)




修復後のアラカルト


唐門の唐破風と社殿の破風の連なり


秋淋し毛虫はひ行く石畳
(子規 明治26年)



唐門の錦鶏鳥の透かし彫り(外側)  室町時代 


修復後の唐門の扉(外側)


修復後の唐門の扉(外側)


修復後の唐門(内側)


諫鼓鳥の透かし彫り
両側中央にある透かし彫りは諫鼓鳥(かんこどり)というモチーフ

中国の皇帝が門前に太鼓を置き、天使の政道に誤りがある時は
人民に太鼓を打たせて訴えを聞こうとした
政治に誤りがなく、打つことがなかった為、鶏が住みつくほどであった
このような故事に由来
徳川の世が天下泰平であるように願いを込めて彫られたと考えられている


諫鼓鳥の透かし彫り(内部左側)


諫鼓鳥の透かし彫り(内部右側)


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上野東照宮の唐門にある左甚五郎の竜の彫刻 2007
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